昭和四十二年八月十三日 朝の御理解 特別奉修委員
心配する心で信心せよという事は、イライラするそういう心で信心せよというのではない。だからイライラせよというのではない。心配せよというのではない。お互いが本当に心配なこともある。イライラすることもある。イライラ、じかじかするそういう時に、神様に心を向けていけという事。
それが心配のあまりに、その心配が自分の周囲まで心配を及ぼしていく。イライラ、じかじかが人にまで移っていくといったような事では、心配する心で信心せよということにはならん。もともと心配という事なんかはしてはならないのだけれども、お互い生身を持っているから心配するだけの事であって、信心という本当に神様を判らせてもらえば、判らせてもらうほど心配なんかいらん。いらんのだけれども心配する。
だからそこの所を教祖は心配するなと言っても心配する。心配する心で信心せよとこう仰っている。ですからイライラ、じかじかするような時でも、一つの事が成就する。一つの事が成就していく時、成就寸前というか、その事が叶っていくために、過程に心配する事もじかじかする事もある。いよいよ心配になれば成る程、もうおかげは近い。いよいよじかじかする時ほど、その中に信心の本当の味わいというものがある。
「うに」なんかじかじかする。あれを中身を割ってみると本当に食品界のまあ珍味の親といわれる様な「うに」の味があるように、じかじかする栗の様にあれをこうじかじかする中にくりくりとした大きな栗が入っている様に、ですからそれを時節を待っていると栗が開いてくる。中身が見えてくる。そうすると、お互いが安心が出来る。
それまでは、なかなかじかじかしていて、御大祭を迎える。それまでの間は、あれもせんならん。これもせんならんと。自分の思いばかりが先にいって……といった時には、やはりイライラじかじかする様なものですけれども、そういう時ほど、心配する心でイライラする心で神様に向かう。そこの所に本当に神様こげなおかげを下さる事になっているのに、本当に凡夫でございますから、イライラしたり、じかじかしたりという事になってくるのです。そこの所を大事にしていかなければいけませんね。
先日、私、光橋先生と久留米の石井さんの所の都子さんの一年祭を奉仕しました。清さんが申しています中に、こういう事を言っていますね。人間が焦っている。そういう時には、自分は神様をこういうくらいにしか信用していないのだなあと悟る。といった様な事を申しておりました。直言ですけれど、本当に素晴らしいことだと思います。その前日のこの前の月次祭の説教を思い浮べられてその事が判られた。
とにかくイライラしている時には、それこそ上り列車に乗らなければならない時でも、それがこんと下りの列車に乗ろうごたる。いやな事をして結局、神様を信じないところから、そういう結果が生まれてくる。
ですから、イライラ心配もいらない。じかじかもあるはずはないのだけれども心配がある時には、じかじかがある時にはね、……焦りの心が出た時には、神様を自分はこの程度しか信じている事が出来ないのだと悟らして悟らして貰う。おかげのおかげだけを言うのは、もう愚の骨頂だといっていますね。おかげは神様のちゃんと下さるものであって、こちらからわあわあ言うて言うたら、まあ、おかげ頂けん時と思っていればよかと。確かにそれどころではないです。
ですから、如何にして心配せんですむ信心。如何にしてイライラせんですむ。どの様な場合でも、神様に心が向けられるだけのゆとりのある信心をしておるかという事が大事だと思う。
いよいよ大祭も後二、三日近づきましたが、中心になって御用頂かして頂く者であればあるほどに、あれもせんならん。これもせんならん言う。そのね、そういう事は一つも気にならんと言う人があります。それはそれまでの人。それは大祭を自分たちの信心によって仕え、如何にそれを現していくかと思えば思うほど、実を言うたら、イライラするくらいの信心をしておかなつまらんけれども、そういう時にイライラせずに、いよいよ神様に向けていくというのが有難い。
そこからイライラじかじかの中に味があり、一粒のぷりぷりとした中身を頂けるように、その向こうに私、本当の信心の味わいというものを感じ、頂くことが出来ると思うね。どうぞ。